第4回 町家の奥に、パリの雨。

2010年2月12日

 30年前に、軽く80歳は超えていた。

 ということは、いま建っていれば、築百数十年。小学生のころに私が住んでいた魚の町の家は、典型的な長崎の町家だった。道に面して格子のはまった「前の家」があり、ずいーっと奥まで、小さな家三軒分の敷地がつながっている。真ん中の家と裏の家の間には、そういえば坪庭のようなスペースもあった。当時はそれが「典型的な長崎の町家」だなんて思ってもいなかったけれど、とっくの昔に家が取り壊されたある日、なにかの資料を見ていたら、懐かしい造りの家の間取り図にそう書いてあった。いろんなところが薄暗くて、ギシギシしていて、床は原爆の風で微妙に傾いていて、くんちの時には玄関をガラリと開けて、龍の頭が入ってきた。

 小さいころに馴染んだ「町家」がもう1軒、思い出される。こちらも「そういえば、あれ、町家だったんだよな…」という程度だから、ひょっとしたら違ったのかもしれない。いや、あのギシギシ感と裏に入って行く感じは、きっと町家だったはず(違ってたらゴメンナサイ)。

 「前の家」は今もある文房具屋さんだ。その奥の2階に、毎週土曜日、絵を習いに通っていた。伸ばした髪とサングラス…いかにも画家風の…いや、フランスのサロン…なんとやらという会の会員でもある正真正銘画家の先生が開いていたのだが、自由な雰囲気で好きだった。本当ならば、もっと自分の家の近くにも絵画教室があった。徒歩50歩くらいのところに。でも、一度見学に行ったら、たくさんの子どもたちが、揃って座っておりこうさんにおなじような絵を描いていて、学校みたいだったのでやめた。一週間が終わった土曜日の午後に、いくら好きな絵を習うとは言え、もういちど「学校」には行きたくないものだ。やっぱり魚市橋を渡って、中通りのほうに通うことにした。

 そこは「フランス先生」のアトリエも兼ねていたようで、似たような絵がぎっしりと立てかけられていた。古い家の匂いと、油絵の具の匂いが渾然と立ちこめるなか、年も学校もばらばらな子どもたちが、部屋のあちこちでそれぞれに絵を描いていた。絵が一段落したころ、夏はアイスや、冬なら肉まんを、みんなで食べた。

 あの教室に、いつ行くのをやめたのか、覚えていない。でも、あの「フランス先生」特有の「いちばん最初に赤と黄色と青でグレーを作っておいて、どんな色を塗る時も多かれ少なかれ混ぜ込む」という、つまりはパリに降る雨のような「アンニュイ(死語?)」な絵を描くやりかたからは、長年抜け出せなかった。赤や黄色をそのまま塗ることを、思いつきもしなかった。抜け出して初めて、自分が「フランス・グレー」にとらわれていたことを知った。自由に見えるものにも、落とし穴はあるものだ。

 アトリエの看板を、しばらくは気に掛けていたが、それもいつの間にか消えた。家も建て変わったようだ。でも、いまだにあのへんを通ると、なんとなく油絵の匂いが漂って来るような、奥のほうだけ、パリの雨が降っているような、時空のゆがみに落ち込んでしまうのだ。

第3回 アンドロイドは牛丼の夢を見るか

2010年1月8日

 中通りから磨屋小学校(いまの諏訪小学校)へ曲がる「お寿司屋さんじゃなかったほうの角」に、牛丼屋ができたことがある。私が小学校低学年のころだった。

 牛丼!

 牛丼って、あの?

 当時の長崎には「吉野屋」も「すき家」もなかった。だけど「牛丼」というものがあることは知っていた。しかし遠い街の話として、だった。すき焼きの残りをごはんに乗せて食べることはあっても、はじめっからどんぶり用に牛肉とタマネギを煮ることは、少なくとも当時のわが家の食文化にはなかった。しかし「牛丼」は同時に「東京発信のメディアにおいては、日本人なら誰もが日常的に食べる一般常識的食べものである」ことも、薄々感じていた。だから中通りに牛丼屋ができると知った時には驚き、ときめき、きっと食べてみたい!と渇望したのだ。

 長崎で牛丼は馴染みがない。

 それは店主も重々承知だったのであろう。チラシを配る感覚なのか、オープンからの1週間ほどは、たしか1杯10円だった。ちゃんぽんだって3~400円はしていたと思う。連日大勢の人が詰めかけた。もちろんわが家も。だけどそれで気は済んだ。みんなそれで気が済んだ。店はほどなく畳まれた。

 私がその次に「牛丼」に出会うのは、中学生ころに聴いた中島みゆきの「狼になりたい」という歌の中でだった。そこには「夜明け間際の吉野家」の風景が描かれている。くたびれたカップルやオジさん、明け方に働いている店員のお兄ちゃん、そして彼らと変わらないくらいシケた気分の自分…。大人の事情はまだよくピンと来ないが「『夜明け間際』に普通の顔をして開いてるごはん屋さん」がこの世に存在するということが、衝撃的に「都会」だった!「中央」だった!牛丼がおいしいかどうかなんて、どうでもいい。すき焼きの残りをごはんにかけたほうがおいしいに決まってる。だけど「牛丼」は、単なる「料理」ではなかったのだ。そういうものを夜明け前から出す店があるという「中央」を現すものであり、それがないわが町は、決定的に「地方」であった。

 それから30年。長崎は、日本中の地方都市は、いつから「地方」ではなくなったのだろうか。

 今ももちろん、地理的には「地方」であるし、その他の面においても圧倒的に「地方」を感じる時と場合はあるが、日々の暮らしの風景は、ここ数十年で格段に「どこも違わない」ことになりつつある。牛丼だって、夜明け間際に食べられる。

 中通りに一瞬あらわれた牛丼屋は「まぼろしの中央」であった。

 いま、地方都市のほとんどは「中央のまぼろし」である。

第2回 薄いオレンジ色のスパーク

2009年12月2日

 まれびと、というと違うのかもしれないけれど、時代を遡るほどに、町の誰もが知っている「特別な人」が存在しえていた。ひと目見たら忘れられない風貌の人や、いわゆる「普通」の生活をしていないような人、アウトロー、等々。たとえばよほど若い人でない限り、中央橋の歩道橋(これもなくなってしまったが)の下で絵を描いていたおじさんのことを覚えてない人はいないだろう。子どもというものは、なぜかそういう人たちに強く心を引きつけられる。少なくとも私はそうだった。自分の親とは異なるフォーマットの感覚や生活があるということに、ドキドキした。

 そんな「まれびと」の中でも、幼い私が出会いを待ちわびていたのは「白いマダム」であった。かなりスリムな体に高級な服をまとい、質量ともにボリュームたっぷりのメイク、つばの広い帽子をかぶり、真っすぐに背筋を伸ばしてヒールを鳴らす…。そんなマダムをいちばん見かけたのが、夕暮れの中通りであった。その時間におつかいを頼まれたり、ごはんを食べに行ったりすると、今日は会えるかな…と、いつも探した。

 ある日、家族と中通りを歩いていたら、前方にマダムの帽子と背筋が見えた。そして一軒の店に入った。それも、前回の「店メモリー」に登場した雑貨屋さんに!狭い店内の真ん中に商品がひしめく「シマ」が延び、天井からもいろいろなものがぶら下がっているあの店…。ということは、これまで遠目でしか見ることのできなかったマダムを、彼女と反対側の通路に入れば間近に見られるということではないか!私は家族から離れ、つとめて「頼まれたおつかいの品を探す」風を装いながら、店に入った。マダムは店の壁ではなく、真ん中の「シマ」のものを見ていた。私はキョロキョロしながら、ついに彼女の前に立ち、顔を上げた。

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 そこには、マダムの薄くて深いオレンジ色の口紅が、ぶら下がったマスクやら絆創膏やらスポンジといった日用品に囲まれてなお、一滴の生活臭もなく輝いていた。「あまりにも日常の空間」と「この上なく非日常の存在」が目の前でスパークした瞬間だった。

 マダムも、絵描きのおじさんも、あの人も、この人も、いつの間にかいなくなった。そういう人は本当にもう、いないのだろうか。それとも、見えにくくなってしまっただけなのだろうか。

第1回 小刻みな主(あるじ)

2009年11月2日

 「蚤の夫婦」という言葉の意味を初めて知ったとき、真っ先に頭に浮かんだお二人。茫洋として大柄な奥さんと、常に商品の整理整頓に余念がないご主人。欲しい物を告げると、目を合わせないまま、小刻みな独特の足取りで、迷いなく案内してくれる。

 昔ながらの、奥に長い構え。ここでいう「四番街」の中程にあった日用雑貨店だ。店の真ん中にはこれまた長い「シマ」があり、両側の壁とともに、歯ブラシ、シャンプー、カミソリ、クリーム、ラップにホイルに洗剤、ちり紙…ありとあらゆるドメスティックなものがぎっしりと並び、立てかけられ、ぶら下がっている。アイテム数でなら、昨今のドラッグストアにだって負けていないはず。さらに商品の「並び」は、似たようなものだからといって決してランダムなものではなかった。洗面、洗濯、掃除…という大まかなエリア分けはもちろん、いま思えば、もしかしたら余人には想像もつかないほどの「法則」に従って、ミリ単位の絶対的な位置関係が存在していたのかもしれない。少なくとも彼の頭の中には、何がどこにあるか正確にインプットされていたし、長年に渡って蓄積された「近隣在住の顧客およびニーズの傾向」のデータや、春夏秋冬のうつろい、新商品の動向などを加味しながら、10個単位の仕入れをこつこつと重ねていった結果が、あの店を形作っていたのだ。定かではないけれど、いまも中通りに時々見られる店のように、建物の奥や二階が彼らの住まいだった可能性もある。あの空間は、まさしく彼らの宇宙、彼らは「主」であった。
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 ここにあるような商品を、いま私たちはドラッグストアや大型量販店で買うだろう。そこに「店長」はいても「店主」はいない。一概には言えないのだろうが、いま、本来なら雇われることに向いてない人までが雇われ過ぎているのではないだろうか。「生きること」が「雇われること」とイコールになりすぎているのだ。大商いはできなくても、自分の才覚で小商いを切り盛りしていけるなら、そのほうが人としての幸福値は高いはず。いままた若い人たちの小さな店が、中通りやその近辺で活気づいているのを見ると、やっぱりこっちが本当なんじゃないかと思ってしまうのである。