30年前に、軽く80歳は超えていた。
ということは、いま建っていれば、築百数十年。小学生のころに私が住んでいた魚の町の家は、典型的な長崎の町家だった。道に面して格子のはまった「前の家」があり、ずいーっと奥まで、小さな家三軒分の敷地がつながっている。真ん中の家と裏の家の間には、そういえば坪庭のようなスペースもあった。当時はそれが「典型的な長崎の町家」だなんて思ってもいなかったけれど、とっくの昔に家が取り壊されたある日、なにかの資料を見ていたら、懐かしい造りの家の間取り図にそう書いてあった。いろんなところが薄暗くて、ギシギシしていて、床は原爆の風で微妙に傾いていて、くんちの時には玄関をガラリと開けて、龍の頭が入ってきた。
小さいころに馴染んだ「町家」がもう1軒、思い出される。こちらも「そういえば、あれ、町家だったんだよな…」という程度だから、ひょっとしたら違ったのかもしれない。いや、あのギシギシ感と裏に入って行く感じは、きっと町家だったはず(違ってたらゴメンナサイ)。
「前の家」は今もある文房具屋さんだ。その奥の2階に、毎週土曜日、絵を習いに通っていた。伸ばした髪とサングラス…いかにも画家風の…いや、フランスのサロン…なんとやらという会の会員でもある正真正銘画家の先生が開いていたのだが、自由な雰囲気で好きだった。本当ならば、もっと自分の家の近くにも絵画教室があった。徒歩50歩くらいのところに。でも、一度見学に行ったら、たくさんの子どもたちが、揃って座っておりこうさんにおなじような絵を描いていて、学校みたいだったのでやめた。一週間が終わった土曜日の午後に、いくら好きな絵を習うとは言え、もういちど「学校」には行きたくないものだ。やっぱり魚市橋を渡って、中通りのほうに通うことにした。
そこは「フランス先生」のアトリエも兼ねていたようで、似たような絵がぎっしりと立てかけられていた。古い家の匂いと、油絵の具の匂いが渾然と立ちこめるなか、年も学校もばらばらな子どもたちが、部屋のあちこちでそれぞれに絵を描いていた。絵が一段落したころ、夏はアイスや、冬なら肉まんを、みんなで食べた。
あの教室に、いつ行くのをやめたのか、覚えていない。でも、あの「フランス先生」特有の「いちばん最初に赤と黄色と青でグレーを作っておいて、どんな色を塗る時も多かれ少なかれ混ぜ込む」という、つまりはパリに降る雨のような「アンニュイ(死語?)」な絵を描くやりかたからは、長年抜け出せなかった。赤や黄色をそのまま塗ることを、思いつきもしなかった。抜け出して初めて、自分が「フランス・グレー」にとらわれていたことを知った。自由に見えるものにも、落とし穴はあるものだ。
アトリエの看板を、しばらくは気に掛けていたが、それもいつの間にか消えた。家も建て変わったようだ。でも、いまだにあのへんを通ると、なんとなく油絵の匂いが漂って来るような、奥のほうだけ、パリの雨が降っているような、時空のゆがみに落ち込んでしまうのだ。