第3回 アンドロイドは牛丼の夢を見るか

 中通りから磨屋小学校(いまの諏訪小学校)へ曲がる「お寿司屋さんじゃなかったほうの角」に、牛丼屋ができたことがある。私が小学校低学年のころだった。

 牛丼!

 牛丼って、あの?

 当時の長崎には「吉野屋」も「すき家」もなかった。だけど「牛丼」というものがあることは知っていた。しかし遠い街の話として、だった。すき焼きの残りをごはんに乗せて食べることはあっても、はじめっからどんぶり用に牛肉とタマネギを煮ることは、少なくとも当時のわが家の食文化にはなかった。しかし「牛丼」は同時に「東京発信のメディアにおいては、日本人なら誰もが日常的に食べる一般常識的食べものである」ことも、薄々感じていた。だから中通りに牛丼屋ができると知った時には驚き、ときめき、きっと食べてみたい!と渇望したのだ。

 長崎で牛丼は馴染みがない。

 それは店主も重々承知だったのであろう。チラシを配る感覚なのか、オープンからの1週間ほどは、たしか1杯10円だった。ちゃんぽんだって3~400円はしていたと思う。連日大勢の人が詰めかけた。もちろんわが家も。だけどそれで気は済んだ。みんなそれで気が済んだ。店はほどなく畳まれた。

 私がその次に「牛丼」に出会うのは、中学生ころに聴いた中島みゆきの「狼になりたい」という歌の中でだった。そこには「夜明け間際の吉野家」の風景が描かれている。くたびれたカップルやオジさん、明け方に働いている店員のお兄ちゃん、そして彼らと変わらないくらいシケた気分の自分…。大人の事情はまだよくピンと来ないが「『夜明け間際』に普通の顔をして開いてるごはん屋さん」がこの世に存在するということが、衝撃的に「都会」だった!「中央」だった!牛丼がおいしいかどうかなんて、どうでもいい。すき焼きの残りをごはんにかけたほうがおいしいに決まってる。だけど「牛丼」は、単なる「料理」ではなかったのだ。そういうものを夜明け前から出す店があるという「中央」を現すものであり、それがないわが町は、決定的に「地方」であった。

 それから30年。長崎は、日本中の地方都市は、いつから「地方」ではなくなったのだろうか。

 今ももちろん、地理的には「地方」であるし、その他の面においても圧倒的に「地方」を感じる時と場合はあるが、日々の暮らしの風景は、ここ数十年で格段に「どこも違わない」ことになりつつある。牛丼だって、夜明け間際に食べられる。

 中通りに一瞬あらわれた牛丼屋は「まぼろしの中央」であった。

 いま、地方都市のほとんどは「中央のまぼろし」である。

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