第1回 小刻みな主(あるじ)

 「蚤の夫婦」という言葉の意味を初めて知ったとき、真っ先に頭に浮かんだお二人。茫洋として大柄な奥さんと、常に商品の整理整頓に余念がないご主人。欲しい物を告げると、目を合わせないまま、小刻みな独特の足取りで、迷いなく案内してくれる。

 昔ながらの、奥に長い構え。ここでいう「四番街」の中程にあった日用雑貨店だ。店の真ん中にはこれまた長い「シマ」があり、両側の壁とともに、歯ブラシ、シャンプー、カミソリ、クリーム、ラップにホイルに洗剤、ちり紙…ありとあらゆるドメスティックなものがぎっしりと並び、立てかけられ、ぶら下がっている。アイテム数でなら、昨今のドラッグストアにだって負けていないはず。さらに商品の「並び」は、似たようなものだからといって決してランダムなものではなかった。洗面、洗濯、掃除…という大まかなエリア分けはもちろん、いま思えば、もしかしたら余人には想像もつかないほどの「法則」に従って、ミリ単位の絶対的な位置関係が存在していたのかもしれない。少なくとも彼の頭の中には、何がどこにあるか正確にインプットされていたし、長年に渡って蓄積された「近隣在住の顧客およびニーズの傾向」のデータや、春夏秋冬のうつろい、新商品の動向などを加味しながら、10個単位の仕入れをこつこつと重ねていった結果が、あの店を形作っていたのだ。定かではないけれど、いまも中通りに時々見られる店のように、建物の奥や二階が彼らの住まいだった可能性もある。あの空間は、まさしく彼らの宇宙、彼らは「主」であった。
kokizami480
 ここにあるような商品を、いま私たちはドラッグストアや大型量販店で買うだろう。そこに「店長」はいても「店主」はいない。一概には言えないのだろうが、いま、本来なら雇われることに向いてない人までが雇われ過ぎているのではないだろうか。「生きること」が「雇われること」とイコールになりすぎているのだ。大商いはできなくても、自分の才覚で小商いを切り盛りしていけるなら、そのほうが人としての幸福値は高いはず。いままた若い人たちの小さな店が、中通りやその近辺で活気づいているのを見ると、やっぱりこっちが本当なんじゃないかと思ってしまうのである。

コメント / トラックバック2件

  1. モモユキ より:

    こちらのコラムを拝見しているうちに、私も知っているお店について書かれていると気づき、びっくりしました!
    ウチではこのお店のことを「ちりがみやさん」と呼んで、よく利用していました。子供のころ、母と一緒に買い物に行ったり、お使いさせられていました。ご主人は、無口でおとなしい方だったように覚えています。
    久しぶりに子供のころを思い出し、大変懐かしい気持ちになりました。
    今後も昔のお店のことを書かれるのを楽しみにしています。

  2. midori より:

    モモユキさん、コメントありがとうございます。
    「ちりがみやさん」!いいですねー。言い得て妙、ですね。あそこは、私にとっての「中通り」を象徴するようなお店だったんです。狭くて長くて、物がいっぱいあって、売ってる人がすぐそこにいて…。次回のコラムでは、幼少の私があの店で大接近の機会を得た「ある人」について書くつもりです。ひょっとしたらその方のことも覚えてらっしゃるかも。乞うご期待!